POOHの世間話コーナー

エリック・カズ初来日ツアー滞在記 その9
 - 取材の日の夜 -

 前回の「エリック・カズ初来日ツアー滞在記 / その8」では「エリックの人間的な魅力にあらためて気づかされた1日でした」と過去形で終わっていますが、音楽メディアからの取材が終わっても、2002年9月13日(金)は、まだ終わった訳ではありません。麻田さんから「良かったら今晩3人で食事に行きましょう」という電話があったのです。「各インタビュアーの方の質問も、エリック、あなたの答えも的を射たものだったし、取材中の雰囲気も良かったので、きっと好意的な記事になって掲載されると思いますよ」「僕もインタビューは楽しかったよ。『1000年の悲しみ』の為の良いプロモーションになればと願っているよ」などと私の部屋でエリックと雑談してたら、ほどなく麻田氏が到着。私が「さっきの取材の時にギター・チューニングの質問があって、エリックが説明の為に一旦レギュラー・チューニングにしといてから緩めてオープンDにしようとしたら1弦が切れてしまって....」と言うと、素早くギターの弦を張り替えた後、オープンD・チューニングのギターを1人弾きながら、会話に加わる麻田氏。「エリックが今晩ちょっと買いたい物があるって言ってたし、3人で食事しようと思って僕が予約してあるとこがあるんで、エリックに少し休憩してもらってから出かけようか」という事に相成りました。30分ほどしてから我々は麻田氏の運転で外出。「なんでもパーマ犬(けん)っていうキャラクター・グッズがあるのを人から教えてもらって、それを買って帰りたいらしいんだ。どんなのか僕は全く知らないんだけど。POOHさん知ってる?」「いや、僕も全然」。原宿のキャラクター・ショップを2軒ほど回ると「パーマ犬の目覚まし時計」というのが売られていました。パーマ犬というのは頭のところだけパーマがあたっていて何だかカツラを被っているような妙な犬のキャラクター・グッズでした。今はこんなのがウケてるんですか? だとしたら、私も麻田氏も「こんな世の中にはついていけない」です。「これの腕時計ヴァージョンってのを探してるらしいんだ」「ヘェ〜」なんて言いつつ探しましたが、見つかりません。エリックも諦めたようで「それなら食事にしようか」と再び車に乗って麻田氏お薦めの某レストランへ。エリックも「Let's go to eat!!」と気合いが入っています。

 そのレストランは4人掛けのテープル席が5つか6つ(か7つ)くらいの小じんまりとした、落ち着いた雰囲気のお店で、店の表は少し和風っぽい感じ。中の内装は、例えば壁に掛けてあるものとかに関していうと、無国籍風な装飾がなされていたように思います。それほど広くない店内に「これは何料理だ」と判ってしまうような匂いが立ちこめるている訳でもなく、てきぱきと動いている幾人かの若いウェイトレスのコスチュームからも、ここが「何料理の店」なのか判断できません。「日本料理の店なんだ。去年ハッピーとジェーンも連れてきたら喜んでた」「ハッピー達と来た時は別の場所にあって、移転したっていうんでココに変わってからは今日が来るの初めてなんだけど、出てくる料理は同じだと思う」と説明する麻田氏の「おまかせ」でオーダーして頂いた料理。テーブルに届いた幾品かから、それが「関西風の味付け」になっている料理である事が判明。麻田氏と私はビール、エリックはお茶で乾杯し「さぁ食べよう」という事になりました。

 今日のインタビューも無事に終わり、日本でのツアーも残すところ北海道での1公演のみ。しかも、明日は飛行機で札幌に移動した後はオフで、コンサートがあるのは明後日。気分的にも余裕ができているからでしょうか、エリックも凄くリラックスしているようです。宴席の話にも花が咲きました。

 「歩いて行けるところに日本語会話の学校があったんでね。決心して行く事にしたんだ、日本に来る1週間前にね。先生が日本人の年輩の女性でね。まず丁寧に訊かれたよ『で、日本へご旅行に行かれるのは何月ですか』ってね。『来週だ』って言ったら呆れてたよ。1回1時間のレッスンを4回、計4時間習っただけさ。だから、基礎的な事も少しは教わったけど、僕が話せるようになりたい文章を幾つかリクエストして、それが言えるようにしてもらったって感じだな」「『次ノ曲ハ何々デス』みたいな?」「それはハッピーに教えてもらった。ハッピーにはPOOHが教えたんだって?」「ええ、去年の夏ウッドストックに行ったんだけれど、ハッピーの家に泊めてもらった時に。彼の来日ツアー直前だったんで、それも含めて少し教えてあげました」「L.A.に戻ったら、その学校で日本語会話を続けて習おうかと思ってるんだけど『来るな』って言われそうでね、僕は問題児だから」「その学校の窓ガラスをたくさん割ったとか?」と私。「Oh, yeah」とエリック。

 「マイケル・カスクーナがレコード・プロデューサーになる前は、レコード・プロモーターの仕事をやってたんだけど....」「へぇ〜、カスクーナは、レコード・プロモーターだったんだ」と麻田さん。「うん、それでその頃にマイケルと僕とボビー・チャールズと3人で車に乗って出かけた事がある。ボビーが《See You Later,Alligator》で有名になる前さ。行った先の友達の家のパーティでアリゲーター料理を食べた事があったなぁ。友達がバドワイザー・ビールの卸業者もやっててね、皆んなでビール飲んで、そのアリゲーター料理を食べてね。美味しかったよ」「アリゲーターって食べた事ないんだけど、どうやって料理するの?」と麻田氏。「輪切りにして焼くんだよ」「アリゲーターの肉ってどんな味?」「ウ〜ン、そうだな、ロブスターのによく似てるな」「フ〜ン」と我々。

 「《Love Has No Pride》が世に出る事になったのには、面白いエピソードがあるんだ。その時の僕が作っていたオリジナル曲は全部で10曲余り、20曲は無かったと思うけど、《Love Has No Pride》は仲間うちの誰に聞かせても評判が良くなかった」「ホントに?」と我々。「本当さ。『この曲は余り良くないね』ってハッキリ言う人もいたくらいだ。で、ボニー・レイットの『GIVE IT UP』がマイケル(・カスクーナ)がプロデューサーとしての殆ど初仕事だったんだけど、レコーディングしてる時にボニーがアルバム用に収録するのに僕の曲を聞かせてくれっていうんで、順番にピアノで僕のオリジナル曲を歌ったんだ。でも、結局どれも彼女は気に入らない。《ほかにはもう何かないの?》なんて言われてさ。で、どっちみち『これも良くないわ』って言われてオシマイだと僕は思ったけれど、ヤケクソでね。『《Love Has No Pride》っていうのがあるんだけど、多分これも気に入らないと思う』『やってみて』って言うから歌ったら、ボニーが『I like this song』って言うんだ。僕は『ボニーはクレイジーだ。こんな誰も良いって言わない曲を気に入るなんて』と思ったよ。その時のバンドの連中もマイケルも『ああ、これで今度のアルバムも台無しになっちゃう』なんてガッカリしてた。それに、レコーディングも難しかったよ。バンドの連中がボニーが『こんなサウンドにしたい』っていうのがなかなか理解できなくてね。《Love Has No Pride》のリズムをやるのに、ドラマーはベース・ドラムとスネアでこんな風に(とドラムを叩く真似)ブン・チャッチャ、ブン・チャッチャなんて何も考えずにやってる。それじゃ、まるでポルカじゃないかって感じ。曲の持ってるムードを誰も掴めてなかったんだ。で、いろいろ試すうちに《この曲には、そんなに沢山の音は要らないんだ》って事に気づいてね。ピアノも両手を使わずに、こうやって右手でコードを軽く弾くだけ。そしたら、ウマくいったんだ(It just worked)。ボニーは僕さえ気づかなかったこの曲の良さを見つけてくれたんだ。サンキュー、ボニー!!」「その『GIVE IT UP』での手腕が買われてアトランテックのアーメット・アーティガンからマイケルに誘いがかかった」「当時『GIVE IT UP』はそんなに売れたの?」と麻田氏。「いや、でもプロデューサーとしての彼の存在をアピールするには充分だったと思う。それで、マイケルが僕に声をかけてくれて、僕はアトランティックからソロ・アルバムを出す事になったのさ」とエリック。

 ウッドストック・フェスティヴァルが催された69年の頃の話になると「僕がウッドストックに移ったのは71年頃だからウッドストック・フェスの時は、まだニューヨークにいたけど、母親の家がウッドストックにあったので、しょっちゅう行ってた。面倒見のいい母親の家には、ウッドストック在住のミュージシャンやアーティストがよく来てた。ジャニス・ジョプリンもその1人だった」「僕がウッドストックに移った時は独身だったけれど、ザ・バンドのリチャード(マニュエル)やリック(ダンコ)はもう結婚していてね。彼等は家では飲まなかったけど、僕のところに来ては皆んなでよく酔っぱらうまで飲んだもんさ」

 「その頃はまだプロじゃなかったからね。バンドのメンバー募集のオーディションを受けた事もあるな。えーッと、カンガルーっていう名前だった」「カンガルーって、ジョン・ホールのバンドのカンガルーですか」「そうそう」

 「ステファン・グロスマンとスティーヴ・カッツと3人でバンドを組んでた事もあったな。グラマシー・パーク・シークとか何とかいう名前だった。それから連中はイーヴン・ダズン・ジャグ・バンドをマリア(・マルダー)やジョン・セバスチャンと一緒に結成するんだ」「エリック抜きで?」「そう僕抜きで」

 「今回のツアーで《Gambling Man》をステージで演奏する時《This is a true story. I lost all my money》なんて言ってるでしょ。あれはホントに本当の話ですか」と私が訊ねると「本当さ」とエリック。「主に競馬とポーカー・ゲームだな。スッカラカンになった。ソロ・アルバムを出したけど、全然売れなかったし。アトランティックの契約は切れるし。レコード会社は(握手する真似をして)サンキュー、グッバイなんて感じさ。ライヴの仕事も大して無くて、あの頃はドン底だったなぁ。そんな時にスティーヴ・カッツから電話がかかってきて《アメリカン・フライヤーってバンドを組もうとしてるんだけど、アルバムを作るのに曲の書けるヤツがもう1人くらい欲しいなって事になってね。どう、入らないか?》って言うんだ。僕は最初《ちょっと最近は忙しいんだよなぁ。まぁ2、3日考えてから返事するよ》なんて言ってね。勿論、スグにその話に飛びついたさ。それから、あのバンドのファースト・アルバムのレコーディングに入ったんだ」「アメリカン・フライヤーは誰のアイデアで結成したバンドなの?」「ウ〜ン、スティーヴ・カッツとクレイグ・フラーだと思う」「アメリカン・フライヤーはツアーとかはしたの?」「いや、全然。ただの1度もやらなかった」

 「それからクレイグ・フラーとデュエット・アルバムを作ったよね。クレイグは後でロウェル・ジョージが亡くなってからリトル・フィートにメンバーにならなかったっけ?」と麻田氏。「クレイグ・フラーをロウェル(・ジョージ)に紹介したのは僕だ。最初リンダ(・ロンシュタット)が僕をロウェルに紹介してくれて、それから暫くして僕がクレイグをロウェルに紹介した。それでメンバーとも知り合いになったんだ。ロウェルはグレイト・ガイだった。ミュージシャンとしてもソングライターとしてもシンガーとしてもね」

 「アトランティックから発表した僕のアルバムの当時の評判は最悪だった。音楽メディアに酷評されてね。ローリング・ストーン誌にもニューヨーク・タイムスの音楽コラムにもヒドイこと書かれてさ。それで、ポール・バターフィールドとボニー(・レイット)がそれぞれのエディターに(どうしてあんなヒドイ事を書くんだ。素晴らしいアルバムじゃないかと)長い手紙を書いて送ってくれた」「70年代に日本でこんなに評判がよくて売れてたなんて、当時は全然知らなかった。海外でもサッパリだって聞いてたんでね。あの時に日本に来れていればと本当に思うよ」「マッド・エイカーズが来日ツアーした時は、一緒に来るなんて話は仲間内で出なかったの?」と麻田氏。「全然。僕は全く知らなかった」

 以上のように、時間軸は少しずれている内容も含まれるかもしれませんが、エリックの記憶では、そういう事らしい話を色々としてくれました。

 どういうきっかけだったか忘れましたが、映画の話題になって、当然のようにクロサワ作品の事をエリックが話をし、黒沢明監督の作品以外で今まで見た日本映画では印象的なものは無かったのか、と訊いたら「あるある。それは35年くらい前にグリニッチ・ヴィレッジの映画館で見た『WOMAN IN THE DUNES』だ。字幕スーパーでね。あれは良かった。主演の女性の演技も素晴らしかったなぁ」と、エリック。内容をよくよく聞くと、それは若き日の岸田今日子さんが主演した映画『砂の女』でありました。

 お酒を飲んだ麻田さんは運転するのを控え、少し前にハジメ氏に応援を頼んでありました。車のところではハジメ氏が待っています。エリックは助手席、私は麻田さんと後部座席に乗り、ハジメ氏が運転する車でホテルまで。もうすぐホテルに到着という頃に、私は今夜のディナーのお礼をもう1度麻田さんに言ったあと、エリックに「音楽メディアの取材も無事おわって、その後で美味しいディナーを食べながら好きな音楽や音楽シーンの事を心ゆくまで話しできて、こんなに楽しくてラッキーだった《13日の金曜日》は今まで無かったなぁ」と言ったら、(彼は振り返りもせずに)前を向いたままで「でも、まだ今日は終わった訳じゃないよ、POOH (But today's not finished, Pooh)」と言いました。つまり、13日の金曜日はまだあと何時間か残ってるから、その間に不幸な出来事が起きる可能性はまだあるぞ。だから、喜んでる場合じゃなくて、気をつけろよ」というジョークなんですが、聞きようによれば、若き日のジョン・レノンが言いそうな、皮肉っぽい冗談です。でも、余りに間髪入れずドンピシャのタイミングでエリックが言ったので、大笑いしてしまいました。

 ホテルに戻って明日のスケジュールの確認。「POOHさんは明日スグ京都に帰っちゃうの?」と麻田氏。「仕事はたまってるんで、やらないといけない事は一杯あると思うけれど、そんなに急いで戻らなくていいんです。良かったらエリックを空港までお見送りしたいんですが」「なら、(僕等の車で)一緒に乗って行ったらいい」という事になりました。エリックと2人で部屋に戻るエレベーターの中。「明日の朝、POOHはどうする?」「えっ? 朝食のこと? 時間を約束してエリックが一緒に食べたいんなら、それでもいいし、別々がいいんならそれでもOKですよ」「朝、POOHの部屋に何時に電話しても構わないかい?」「勿論、いつでもいいです」「そしたら、もし7時半までに僕が電話しなかったら、まだ眠ってるか、それとも1人で食べたい気分になってるって事でいいかい?」「モチロン」「じゃあ、おやすみ。トーフ・マン」「おやすみ、ラーメン・マン」と言い合って、お互いの部屋へ。長かった2002年9月13日の金曜日は、それから午前0時まで不幸な出来事も起こらぬまま、静かに更けてゆきました。

 

※続きは「エリック・カズ初来日ツアー滞在記 / その10」

 

 

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